昭和40年代の初めはまだロジャーズの「非指示的カウンセリング」の全盛期で、カウンセラーが指示的態度、つまり、自ら積極的に出ることは良くないとされていた。だから、カウンセラーが心理テストを取ることはなかった。心理テストとカウンセリングは対立的に考えられていたからである。
その後、ロジャーズの第二番目の本『来談者中心療法』が入ってきて、非指示的カウンセリングは来談者中心療法と呼ばれるようになり今に至っている。今でも臨床心理士のほとんどはこの来談者中心療法でカウンセリングを行っているから、スクール・カウンセラーはクライアントの話を聞くだけである。臨床心理士が話を聞くだけで助言も何もしないのは来談者中心療法に則っているからである。
来談者中心療法では考え方が精緻化されただけで、非指示的カウンセリングと実質的には何も変わっていない。
非指示的カウンセリングで困ったことの一つはクライアントが話を切って沈黙したときどうしたら良いかわからなかったことである。カウンセラーの方から沈黙を破るとそれは積極的に動いたことになるから非指示的でないということになって良くないと考えられた。今では笑えるほどおかしなことであるけれど、それが真面目に考えられていた。
そういうところに河合先生は帰国してユング心理学を紹介しなければならなかったのだからずいぶん気を使われたのだった。
心理テストと非指示的カウンセリングの対立は、描画の扱い方について先生が積極的に取り組む発言をされていっぺんに氷解してしまった。
沈黙については、先生は「もし僕の面接の録音を聞いたら僕がまったくしゃべっていないことがわかるはずだ」と言われ、もっと非指示的であると示唆された。それが実際どういうことか納得いかなかった。後で分析を受けてみてわかったことは、実際そうであったということである。先生は初めに「どうぞ」と言い、終わりに「では今日はこれで」と二言しかなかったことがあった。
私にはスタニスラフスキーの『俳優修業』が面白いと言われた。これはまだ帰国されて間もない頃のことだったと記憶する。沈黙について書いてあるといことだった。
買って読んでみると、最初の演技指導が「沈黙」であった。演出家が学生に沈黙、何も台詞のないところを演じなさいという。誰もできない。そこで演出家が舞台に立って何もしない役を演じるとみんながその舞台で役者が何もしない場面を見ていることができるのだった。不思議である。役者が何もしないのにどうして観客は舞台に惹きつけられるのか。無為を演じているからだ。無為とは何か。これはまた大きなテーマであった。
何もしない役者が無為の演技をしている。河合隼雄先生というカウンセラーは何もしないでクライアントの前に存在している。クライアントは50分自分だけで話をして満足して帰ることができるのだった。
先生は時には靴下を脱いだり履いたりされた。ある人はひとしきり話をして顔をあげたら先生がいない!、先生は机の下にもぐるような姿勢を取って居られたのだった。話が面白くないときは眠っておられたと思う。先生には沈黙による対決があったと思う。
私はこの本の役作りから、共感するにはいかにしたらよいか、その確かな方法を学ぶことができた。『俳優修業』はまさにカウンセリングの教科書であった。