いのちを生きる力を育てる

 「いのちを生きる力を育てる」と私が行っている児童養護施設の玄関に書いてある。

 今年のある会に行ってみたら私よりも若い方が退職後がんが見つかり手術を受け少し体力を落としておられた。もうお一人の先生もがんでその方はお見えにならなかった。私より若いのに仕事は教育的なことを残してやめたられたと聞いている。それに引き替え私は異常なほど元気である。

 私はなぜこれほど元気なのか。はたして先生方より生きる力が強いのか、それは私にもわからない。元気すぎる自分に危機感を感じている。元気なものほどあっという間にいのちを終わることがあるからである。

 先生方ははるかに業績のある方で、もうやることはやって少し体力が衰えても仕方がないのかもしれない。河合隼雄先生だって長官職や臨床心理士会の仕事のために体力を消耗して早世されたが、ご長男の俊雄先生が言っておられるように大体したいことは全部して逝かれたとも言える。男性は自分の仕事が終わると、一旦男としての寿命が尽き。そこで死が訪れる。

 私はまだし残したことが沢山ある。70歳になってやっと自分らしく生きはじめたと感じている。今病気になっては思い残すことが沢山ある。私はもっともっと生きたい。与えられたいのちを生きる力をくださいという思いが強い。

 NHKの「家族に乾杯」を見ていると元気なお年寄りが多い。あのように元気でありたい。今から10年後80代半ばになったとき元気に笑える人間でいたい。健康第一であるが、その健康は自分に与えられたいのちを生きる力に支えられているということではなかろうか。

 健康食品で健康が維持されるという考えは現代の一つの宗教ではないかと思う。健康を、体力を、若さを維持するという食品やエキスを人々は神から与えられた命のように取り入れている。生きる力を健康食品で補うというわけである。

 神から与えられたいのちはただ生きる可能性だけである。いのちを生きる力は別物だ。

 いのちを生きる力は体力なのか。体力をつけるためにスポーツジムに通う。そこで得るものは体力だがきっとジム通いをやめたとき体力がグーンと落ちるに違いないと私は思う。

 いのちを生きる力は体力や知的な能力ではなくその年令の生活を楽しむ力ではなかろうか。毎日まいにちを有意義に楽しく過ごしたい、ご飯をおいしく食べたい、そして会う人々と心のつながりを持っていたい。そういう気持ちがいのちを生きていく力になって行くのではなかろうか。

 

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