外向的主張タイプと心理療法

(これは臨床心理士向けのエッセイです)

 外向的自己主張タイプの、特に子どもでは自己主張的で自分を大きく見せようとする。内向的受容的なタイプの治療者に対して強気に出て自分の優位性を示そうとする。治療者の反応がないとますますエスカレートして悪さをする。並べてある箱庭の玩具を倒したり落としたり、砂をまいたり、玩具を持ち出そうとしたり、してはいけないことをして治療者を怒らせようとすることがある。

 このようなことは治療者が内向的受容的で叱るようなことをしない、やさしく接するときに起こる。

 内向的受容的な心理療法の典型は来談者中心療法であった。この両方の共感的受容的な態度は日本古来の「和を以て貴しとなす」という日本的、配慮的、気持ちを察する人間関係に良く合っていた。

 ところが戦後の民主主義の教育で培われた個性尊重の自己主張文化は言わなければわからない、察することをしない文化になってきた。これはラテン文化の、あるいは欧米の、戦いの人間関係である。言わなければ分かり合えない文化である。最近の子どもたちの中にはこの外向的自己主張の子どもが出てきた。この子たちが内向的受容的な治療者に会うと戸惑ってしまい、何とか治療者の反応を引き出そうとして悪さをすることがある。

 このように子どもが悪さをし始めたら、治療者も内側に持っている外向的な戦う姿勢をはっきり持って毅然と対処しなければならない。そうすると子どももはじめて自分を認めてくれたと思って安定する。

なぜ、内向的受容的な治療者に対して外向的自己主張タイプの子どもが悪さをするかと言えば、それは受容的な雰囲気では不安になるからである。内向的受容的な子どもはやさしくされるとホッとするのに、外向的自己主張タイプは外から枠をはめられた方が安定する。

 悪いことをする非行集団には不文律がある。悪いことはみんな一緒にする、秘密を守る、仲間を裏切らない、このような枠が安定をもたらす。これは厳しい枠である。内向的受容的なタイプの接し方はこの枠を壊そうとするのだから不安定になるのである。

 戦後の民主教育の成果は、それで育てられた親たちが育てた子どもの時代になっていっそうはっきりと表れてきた。今や外向的自己主張が当たり前になってきた。ここで共感的受容的な来談者中心療法は通用しなくなった。

 以前、礼儀知らずの、コントロールの効かない人が増えた。その人たちは境界例というレッテルを貼られた。境界例ということは人間関係の境界を守れない、礼儀知らずと言う意味である。この境界例に対しては、リミットセッティングが有効とされた。制限を設ける、仕切りをつけ厳しく接する、そうすることによって境界例という外向的自己主張タイプの人は安心することができたのである。これはダメですと言えばわかるのである。

 その世代の人々が育てた子どもたちが今は多くなった。外向的自己主張タイプの子どもの時代である。そういう時代の子どもたちには治療者もしっかりと、外向的とまではいかなくても、厳しさを秘めた自己主張をしなければならない。内向的受容的な態度は内向的受容的な子どもにだけ通用するのであって、外向的自己主張タイプには通用せず、苦労することが多いと覚悟すべきである。それは治療者の苦労だけで済まず、子どもも相応の自己主張、それはしばしば相手を怒らす悪さをしなければならないのだから子どもには罪なことであると私は思う。

 

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