村上春樹『1Q84』を読む6-井戸掘りから空気紡ぎへー

 『ノルウエイの森』は青春の性の遍歴を描いた小説だと思ってその後再び読むことはなかった。性の遍歴は男性にとって一つの冒険物語のようなものであり、これといって精神の深みがあるわけではない。その程度にしかこれを評価していないのは私の読みの浅さを示すものかもしれない。私の浅はかさをご容赦いただきたい。

 『ねじまき鳥』は井戸掘りのテーマでそれがうまく成功しなかったことが印象に残っている。村上さんにとって井戸掘り、つまり精神の深みに入っていくことが如何に困難であるかがわかったような気がした。

 その後であったか、村上さんは河合隼雄先生に会われ、『村上春樹河合隼雄に会いに行く』という本を出されたのではなかったか。

 その後『海辺のカフカ』を出版された。このことが縁で村上さんは日本心理臨床学会に来て河合隼雄先生と対談された。その内容をあまり覚えていないのは小説を読んでいなかった所為かもしれない。

 『海辺のカフカ』は四国の山奥に行くテーマである。その山奥はなかなか入るのが難しい、出るのも難しい山奥である。その山奥は存在のすべてが冷たく動かない世界であったのではないか。それはいわば死の世界である。村上さんはまたしても井戸掘りに失敗したと思ったことだった。『海辺のカフカ』の中にはいくつも空想的な場面が出てくるのだが、それがたいてい作り物の世界、頭でこしらえた作り物の感じがした。魂が作り出した本物の空想になっていないような気がしていた。

 それが今度の『1Q84』では断然違った。村上さんは見事井戸掘りに成功して向う側の世界に入られたと思った。河合隼雄先生の死後、河合隼雄先生との関係が何であったのかを確かめて行くうちにそれが可能になったのだ。

 小説の中で父親は昏睡状態であるが、医師や看護婦は声は通じるかもしれないという。半信半疑ながら父親の前で半生を語ったことによって自分の目の前に空気さなぎが現れる。つまり、生きた空想の世界紡ぎ出すアニマを獲得することができたのである。そのアニマとは小学4年生のときであった青豆であった。

 元々、村上春樹さんは外向的な性格ではないかと思う。小説の中に物の固有名詞がよく出てくる。「ヤナーチェックのシンフォニエッタ」がまさにそうである。服やお酒の名前が次々に出てくる。「知識は貴重な社会的資源である」というのもそうである。内向的な人なら「知識は内的資源である」というところである。このような傾向をみると村上春樹さんは外向的感覚タイプであると言えよう。

 そうすると内向的感覚はその裏になり、内向的直観はさらに深いところになる。『1Q84』ではオウム真理教の教祖みたいな人が出てくる。この人物は教祖ではなくあくまでもリーダーとして扱われ、教祖的なところは機能面だけ強調され、超越的な世界への開けが無い。そこには内向的な直感が働いていないのではないかと思う。

 外向一点張りで、内的な世界に目が向かない以前の村上さんは空想の世界、想像の世界に入ることがとても困難だったのではなかろうか。そのために外の世界から内的な世界に通じようとして果敢に挑戦され、ついに昏睡状態の河合先生を想定しての語りでそれが成功したと言えるのではなかろうか。昏睡状態の人への語りかけは本当に空しいものであろう。その感じが小説では良く出ている。しかし、小説を書くときのま村上さんは河合先生との内的な対話が相当に起こったのではないかと想像する。その想像が青豆というアニマになって行ったのではなかろうか。

 ある小説家が、自分の想定した人物が想像の世界で自ら動きだすとその小説は成功すると書いているのを読んだことがある。想定した人物が動きだすということは内的想像の世界が生きた現実としてあり、小説を書きながら登場人物たちと共に生きて行くことになる。これは生きた現実の世界であり、これが勝手に動き始め、それがいつも出てくるようになると不眠症になってしまうかもしれない。有吉佐和子さんは小説の登場人物が勝手に動き出し眠れなくなって睡眠薬の飲みすぎで亡くなられたとどこかで読んだことがある。内向的な人はこの内的なものの動きで外的現実の行動がうまくできないことがあるけれども、村上さんは却ってその反対の性格で小説がうまく書けないと感じていられたのであろう。

 河合隼雄先生追悼小説ともいえるこの『1Q84』でそれが成功したことは素晴らしいことであり、私にとってもうれしいことである。これからの村上春樹さんの小説が楽しみである。