女性の生き方Ⅰ 元始、女性は太陽であった

 最近おもしろい本を読んで私のなかに考えるべき沢山のことが入ってきた。その沢山のことを私のこころは処理することができないのであろうか、次第に眠れなくなった。その上一時間毎くらいに目が覚めトイレに行く。まるで頻尿である。頻尿だとすると、私のなかに溜まっているものを早く出せという身体言語である。そこで一つ書くことにした。

 一冊は、瀬戸内晴美の『岡本かの子』、もう一冊は円地文子の『女坂』である。

 瀬戸内晴美の『岡本かの子』は小説というよりも、小説家による岡本かの子に関する研究書である。たくさんの小説や手紙、聞き取りなどの豊富な資料を検討した研究で、臨床心理学的に見ても興味深い第一級の資料である。臨床心理士の必読書の一つに挙げたい。塩野七生はローマの歴史を研究したが、その研究成果を発表するのに物語化して学者だけでなく一般の多くの人に読んでもらうようにした。これは卓見である。瀬戸内晴美の岡本かの子研究も物語化され、私たちにわかりやすくなっている。

 

 さて、二つの小説は時代的には古い時代に生きた女性の生き方を描いたものであるが、円地文子の『女坂』は文字通り古い時代の古い生き方を描いており、今では読み続けるのに苦労するほど暗い世界である。一方、明治大正昭和にかけて生きた岡本かの子の生き方は現代の強い女性にも難しい天晴れな生き方で痛快である。私はこの本を読んで大阪万博跡地に今も残るあの太陽の塔の意味がしっくりと心に納まった。みなさんにも是非ともお勧めしたい本である。

 

 岡本かの子は川崎の大貫家に生まれた。大貫家は資産家でその家の長女であった。資産家と言っても、多摩川を西に越えた川崎だから東京からすれば田舎の資産家に過ぎない。この家はかの子が岡本家に嫁に出てから、父親が関係していた銀行の破綻でほとんどの財産を失って没落した。しかし、この大貫家から後に偉い学者らが出ているのではないかと思う。

 大貫かの子は今の東京芸大出の若い画家岡本一平に恋い慕われて結婚する。岡本一平は東京下町の看板屋の息子で、当時は壁画描きの手伝いで、たいした収入もなかった。大貫家の生活からするととんでもない世界に飛び込んだことになる。

 そのうち岡本一平は、朝日新聞に絵を書いていた友人の病気のために代わりにコマ絵を書くことになった。当時は写真が発達していないから絵描きが街の情景のひとコマを写生してそれに言葉を付けて出していた。友人の代わりに描いた岡本一平の絵と言葉は朝日新聞の社員であった夏目漱石の目に止まり推薦されて朝日新聞の社員となった。岡本一平の絵と言葉は多くの読者の評価を受け、彼は一流の漫画家と評価され収入もグンと増えた。そこから岡本一平の遊びが始まり食い詰めて、かの子は実家に援助を求めた。けれども実家も銀行の破綻でかの子に貸す金がなくなっていた。

 かの子は小学生の頃から歌を作り始め、16歳の頃から大貫野薔薇の名前で投稿をはじめ、17歳で与謝野晶子や谷崎潤一郎を知り、岡本可能子の名前で「明星」に歌が載り始め、20歳でスバルの同人として活躍し、22歳で平塚らいてうの「青鞜」にも参画した知的で進歩的な女性で、与謝野晶子に連なる一流の歌人になって行った。この間に岡本一平と結婚し、画家岡本太郎の母となった。

 当代一流の漫画家岡本一平と一流の歌人岡本かの子の結婚生活は一平の遊蕩で破綻に瀕した。かの子は長女を生んで神経衰弱になり入院し、長女も亡くなり、次にできた次男もなくなった。この間のかの子の苦悩は如何ばかりであったろうか。

 かの子は恋多き女性で、18歳で恋した男は神経を病んで急逝し、19歳の恋は両家に阻まれ悲恋に終わった。一平と結婚して一平が遊蕩に耽り経済的にも苦しくなり、長女が誕生し誕生日も迎えず亡くなった後、かの子は早稲田の文科生堀切重夫を知り、ついには家に引き入れて恋人も共に生活することになる。夫一平は豊年斎梅坊主に弟子入りし、かっぽれを踊ったというから、妻が恋人も引き入れた生活を笑いで誤魔化そうとしたのであろう。堀切重夫はこの家の中で三角関係に悩んだのか、ついには肺結核を患い、かの子の妹に恋してかの子の怒りを買い、家を出て行く。

 その後、一平とかの子の二人は宗教に救いを求める。はじめキリスト教に求めたが果たせず、二人は禅寺に籠もったりするが、ついには親鸞に傾いて行った。

 その後二人は性的な交渉のない夫婦になり、兄妹か姉妹のような関係になって行った。しかし、かの子の恋愛感情は消えず、30代半ばで慶応病院の医師新田亀三を知り恋してしまう。かの子の面会の要求が強いのでついに新田は函館に転勤させられてしまう。それでもかの子は一平に青森まで送られて新田に会いに行き、また、青森まで迎えに来てもらって帰るということを繰り返した。そしてついには新田も岡本家に入って住むことになった。当時岡本家には政治家恒松隆慶の二人の息子、恒松源吉、安夫の兄弟が居候して、とくに安夫は岡本夫婦に代わって会計や家事をこなしていたという。

 かの子が40歳になり太郎が美術学校に入学したとき家族みんなでヨーロッパ旅行をしたときは恋人新田と安夫らを含め、まさに家族全員が同行したのである。奥さんの恋人もそしてお手伝いも含めて3年半の家族旅行は今の時代でも考えられないのではないか。そこには道徳を越えた何かがある。

 一平もかの子も思う存分活躍し、かの子は49歳のとき年の暮れに男と油壺の旅館に出かけそこで倒れ自宅に帰り静養したが、翌年2月になくなった。一平と新田の二人は東京中の花屋から薔薇の花を集め、墓地に自ら鍬を揮って穴を掘り、上下二段に薔薇の花を敷き詰め埋葬したという。1936年当時花代が三万円になったというから相当な額である。かの子は夫にも恋人にもそれだけの深い思いをさせた人で、かの子と共に生きた時代が最高だったと思わしめている。医師新田はその後故郷岐阜の白川口に帰り病院を開き地域に信頼される人になっていたけれども、かの子と一緒に暮らした時代が一番良かったと瀬戸内晴美に言ったという。

 かの子の死後、一平はかの子の残した小説の草稿を整理して小説を発表した。

瀬戸内晴美の分析によると、かの子の死後に出されたかの子の小説は、かの子の草稿に一平が手を加え、夫婦合作のようになっているという。「生々流転」はまさに夫婦の精神世界での結婚を象徴するものなのだろう。

 一平は20代の遊蕩の後性生活を絶ったが、かの子は恋人を家に引き入れ存分に満足し、ついには若いツバメと旅行して倒れた。このような放漫な生活を送りながらかの子は自分の才能を存分に発揮して芸術的な活動をした。

 瀬戸内晴美の基本的な考えが男女の愛という横軸の関係を主にしていくので、縦の軸、存在の苦悩、宗教的な支え、生き方の姿勢というようなところは希薄になっている。この点から書く人があっても良いだろう。

 かの子は自分に率直な人で、内面から突き上げてくるものに素直に従ったのではないか。恋愛感情に正直で、夫に好きな人とこの家で住みたいと頼んだ人であり、さくらをテーマに百首を読むこともできた人である。彼女は芸術を宗教に相当するものと考え、息子岡本太郎は芸術は爆発であると考えたことを瀬戸内晴美は指摘している。岡本かの子の行き方を瀬戸内晴美は繚乱、つまり乱れと考えたが、本当は爆発である。生衝動の爆発である。生は性も含んでいるけれども、その一部分でしかない。爆発する岡本かの子と太郎母子、それを支えた父一平と男たち、これによって芸術と宗教がつながり、芸術は爆発であるとい太郎の思想に収斂していくのである。

 

 このように考えたとき、私の目に万博跡地に今もそびえている太陽の塔が浮かぶ。この塔は岡本一家が作り上げたものである。ある人は馬鹿馬鹿しいというが、平塚たいてうの「元始、女性は太陽であった、真正の人-」という言葉が実現しているのを感じる。浮気だ、不倫だと騒ぐ人々の上に生を満足して超然としている真正の人のイメージである。

<次へ                                   前へ>