法律と道徳

 罪を犯せば法律で罰せられる。道を外れると辱めを受ける。

 ある人は目の前で父親をころされた。殺した犯人は捕らえられ刑に服した。犯人は法に照らして裁判を受け、刑を言い渡されて服役してそれで一応社会的責任は果たしたことになる。

 殺人という行為は道をはずれている。道を外れたこの不道徳は刑に服すると許されるのだろうか。私たちは一般的に刑に服するとその犯した不道徳さも許されると考えているのではなかろうか。

 でも、目の前で父親を殺された子どもの立場に立つとそれで良いのだろうかと思う。子どもがもし犯人の前に立つことがあったらどんな気持ちだろうか。罪は刑に服役しただけでは決して済んでいない。子どもと犯人が人格的に向き合ったとき、人間的なつき合いができなければならない。犯人から父親の命を奪ったその悪を認め、許しを請う必要があろう。本当に悪いことをしたという謝罪の気持ちが必要なのだ。この謝罪が終わらないと本当の事件の解決には至らないのである。

 法律的には事件は決着したが、道徳的には決着を見ないということがある。それがほとんどである。しかも、刑務所が満員であるから、服役態度が良いと比較的短期間に罪人が出所してくることがあるらしい。罪人が反省しておとなしくなったということで、道徳的な解決を見ないまま罪人が生きられる社会になった。非人格的な礼儀の廃れた社会になってしまった。本当ならば出所の前に被害者に対して謝罪の機会を与えないと罪人も被害者も本当に社会のなかでまともな人間関係をつくれないままに生活することになるのである。

 罪を犯すと、その罪によって犯罪者は穢れる。また、罪人によって被害を受けた人もその被害者ということで、罪人にかかわって穢れる。この穢れを感じて人々は被害者をも差別する。被害者として差別された人は孤独になる。それが典型的に出たのは被爆者ではなかろうか。そして多くの大事件の被害者が穢れを着せられているのではなかろうか。

 私たちはこの穢れをぬぐうために何をしたら良いのであろうか。

 私たちは被害者に着いた穢れをぬぐうために何をしたら良いかわからないが、その人の人格を認め名誉を回復する必要がる。それは人間関係を生きるための絶対必要条件ではなかろうか。

 

 法律で裁き、道徳的に決着をつけ、さらに名誉回復を、と考える。

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