私の統合失調症について

 先回最近の統合失調症について書いて急に私のことが思い出されてきた。

 私には青年期の頃明らかに空笑があったらしい。私の家は百姓だったから庭でみんなが作業をしているとき、姉が私の空笑に気づいて何で笑っているのかと訊ねたことがある。そのときあまり面白いことも思い出していなかったので、自分が笑っているなんて意外な感じがして黙ってしまったことがある。違和感のある思い出として心に残っている。

 私の従兄弟は精神病院に入院したと聞いたし、叔母さんの1人はいつも泥棒が入ると明らかにおかしいことを言っていた。けれども独身で、80も後半になってやっと老人施設に入り93で亡くなった。妄想病でも自我が強いから長生きするのだと思った。私はこのように統合失調症の血を引いているので、統合失調症に魅力を感じる。先回紹介した明るい純粋無垢な娘さんがいとおしい。純粋であるが故にそれがときに社会生活をうまくいかなくさせるのである。社会生活がうまくいかなくなるので病気と名づけるのだが、ちょっと変わった人柄として受け入れてもらいたいものである。こんな純粋無垢な性格の人があると心が癒される面もあるのではないか。私はこの娘さんの話を聞いて癒される思いをしたのでこれを書く気になったのだ。

 私も社会生活はうまく行かない方である。みんなで話していて話のタイミングを掴むのが下手である。また、しばしば、自分はみんなの話の筋に沿っているとか、論理的に正しいと思って発言すると、それがとんでもない発想に聞こえるらしい。学会でもときに大勢の前でとんでもないことを言うので、いつもはらはらしている人があると聞いて、私は自分にはらはらしてしまい自信がなくなった。このうまくいかなさは病的とまではいかないけれども、自分が人々に敬遠される一因になっているに違いない。敬遠されることは感じていたけれど、その原因がここにあることがやっと意識化されてきたのである。統合失調症もちょっと広く受け入れてくれると少し変わった人として受け入れられるのではなかろうか。

 私の奥さんは私の中に子鬼のようなところがあるという。まだ子、小鬼だから何とか許されているのだろう。大鬼になったら有名人になったか、どこかで野垂れ死にしているかどちらかである。

 私のパラノイア傾向は乏しく、妄想的非現実的な傾向には走らず、このような心理学を書くようなことに走っている。現実的合理的で妄想型とは反対の極にいっている。妄想を持っている人がうらやましい。妄想の世界に遊べたら随分楽しいだろうと思う。だから、妄想を持っている人には大いに楽しく妄想の世界で生きてもらいたいと思う。妄想は遊びの延長だからきっと子供の遊びのように終わりが来る。そして少し大人になるのだ。

 私は空笑も妄想も誰もが内的に経験する心的過程の一部だと思う。それが顕著に表に出すぎるか否か、ある程度で普通の意識に戻れるかどうかが問題なのだ。少し戻りにくいとそこで病気という診断がなされてしまう。これが残念である。私はしばしば暖かい人だといわれる。自分では心外である。私は人の気持ちにそんなに触れていないし、いつも人は私の外にいると感じている。発言するときだけ中にちょっと入ってすぐに出るだけの交流である。温かいとすれば孤独の寒さのカムフラージュだと思う。多分私は統合失調症のすぐとなりにいるのだと思う。

 

 この前出席した心理臨床学会も大勢の人と会ったのだがほとんど人間的な会話無しに帰ったのではないか。大勢の中の孤独を感じて帰った。ある会場では発表者が討論をして欲しいところを発表資料に書いてあるのにそこを発表させてもらえなかった。可哀想だった。肝心の会話無しの学会、ここにはむき出しの無垢な心はない。それが心理臨床学会だとしたら無くても良いかと考えるが、やはり自主シンポはむき出しの無垢な心でやりたいものだ。来年も明るい無垢な心のむき出しで行こう。

 

 

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