臨床心理士の視点

 本日の笠原嘉先生の臨床講義はとても有意義であった。先生は学識経験共にとても豊かで、広い視点から縦横に見方を変えてゆっくりと考えを確かめながら意見を述べられるので説得力があった。先生の見方をそのまま受け入れると私たちの立場は無くなってしまうような感じを受けたので、自分の心に照らして考え方を立て直していく必要を感じた。

 その一つは、医師は病気を見ているので、病気を悪い方から考えると言われたことである。経過を見ていくうちにそうでなくてもっと軽いものであればそれで良いのではないか、それからでも遅くはないということであった。

この態度をとると、先ず疑わしきはすべて医師の診断を求め、医療から始めよということになりかねない。

 私たちが今日出した3つの事例について先ずは統合失調症の視点から検討された。3事例とも精神科の医師に診てもらっているのだが、臨床心理士にもかかっていて、医師が完全に臨床心理士に任せているものもあり、平行してかかわっているものもあった。医療にかかりながら、臨床心理士が担当している事例であるが、笠原先生の多面的な意見を聴くことは大いに参考になった。

 医療の立場は病気を抱えているから、病気から生じる不安を薬で抑えておけば、その間に何とか自我の建て直しをすることができるというのが医療の立場である。

そこで私たち臨床心理士の視点を考えると、病気よりも、病気を抱えて生きている人格を見ているのではないかと思う。急性精神病状態のような自我のまともな判断を揺るがす不安は別にして、自我が生活の展望を持ちながら自分を支える心を見出して少しずつ前進していくような場合、自分をしっかりと見つめる視点を作り、病的なものに耐える自我を作っていくことが大切ではないかと思う。統合失調症の経験が過去にあっても、現在薬を使って何とか現実生活ができているのであれば、私たちの心理臨床ではその健康な部分から出発する。

 病的な部分や歪んだ性格、劣等な人格の部分は探り出せばいくらでも出てくるではないかというのが私の立場である。私のなかには妄想もあり時には幻聴とは言えないまでも、心の中に自分を揺るがすような思いが生じてくることがあり得る。私たちは良い経験も悪い経験も沢山もった、表面問題なく見える基盤の上に立っている。ひとたび心のなかに地震が起これば液状化を起こし私は危うくなるかもしれない。薬ばかりに頼っていては自立はできない。頼りになるのは自分の復元力である。クライエントは自分の内面を掘り起こして経験に根ざした自我を持つことが望まれる。

 私たちは過去の経験が悪いと自我が脆弱になると考えがちである。しかし、実際はそうなるとは限らない。

 

 親に捨てられた子は不幸である。捨てられた子も親に会うまでは親は暖かい良い人であると幻想する。しかし、実際に会ってみると、親は自分を見てくれず、かえってこき使われるばかりでよいことはないとわかると、子どもは覚悟を決めて自立を図るようになる。事実を客観的に見つめる目、それが自立する自我である。現実を見据えると自分がしっかりする。内面の自分の弱点や置かれている状況をしっかりと見つめると生きている自分ができてくる。経験を素直に見つめ受け入れる自分を作る作業をするのが臨床心理士の仕事ではないかと思った。背後に統合失調症やうつ病になるような喪失体験があったにしろ、そのような自分を見つめる目を持つことによって、その経験を人に伝えると世界が開け、社会的関係が開かれてくるのではなかろうか。人間関係は自己開示するところから始まるのだから、たとえそれが病的な経験であってもそれを大切な人間関係のなかで開示することによって社会化が起こるのではなかろうか。病的な経験も私たちの内的な大切な財産ではなかろうか。