明治村芝川邸訪問

 GWに何もすることがないので、ご近所の方と共に明治村の芝川邸を訪ねた。

 一週間前に吉良の華蔵寺、吉良家の菩提寺に竹の子を掘りに、やはりご近所の方と出かけたとき、昔2ヶ月ばかり仮住まいした芝川邸が実は明治村に復元されたという話をし、一度は訪ねてみたいという話をしたら、そこへ是非遠足にいこうということになった。それが早くも昨日実現した。竹の子掘りは5家族で行ったが、今度は4家族だった。こんなにご近所で遠足が出来るとは幸せで、また、自分たちの昔を偲んでいただけるのもうれしかった。

 私たちは東京で結婚して、翌年関西に移り住むことになったが、関西は借家に入るのに敷金が高くて住むところが見つからないので、仕方なく京都島原の元遊廓の旅館に泊まっていた。そんなに困っていた私たちを良子さんの勤め先の、神戸大学精神科教授黒丸正四郎先生が心配してくださって、甲東園の芝川さんを紹介してくださった。黒丸正四郎先生は、カナーの『児童精神医学』の翻訳者の一人で、当時、児童精神医学の第一人者で、また、とてもわかりやすい話をされるのでテレビのない時代、ラジオによく出ておられた。

 芝川さんの家は広大な邸宅で、古い家の空いている二階を家賃月1万円で貸してくださった。私の給料が2万円に満たないけれども、黒丸先生が敷金のことを何とかしてくださったので、二人の給料でそこに住むことができたのである。

 おじいさんが住んでおられる表の家と、もう一つ若夫婦が住んでおられる母屋があった。私が入ったところは下にダンスホールがある、古ぼけてはいるが立派な家であった。ダンスホールのある階下の前には椿園が広がり、池もお墓もあった。手入れはあまりされていなかったので立派という感じはしなかったが、2階からの眺望はすばらしかった。宝塚から大阪、大阪湾の向こうの和歌山まで全部目の前に広がっていた。六甲山の東の端、冑山の麓、昔芝川家の果樹園であった甲東園の高台にそれは立っていたから眺望は最高に良かった。朝の景色も夜景もすばらしかった。昔のお金持ちはこんな贅沢が出来たのだと感心した。

 この家が阪神大震災で壊れ、取り壊されて無くなるはずだったが、これを惜しんだ工務店の方が復元を期してとって置かれたのだ。それが十年近くたって明治村に復元されることになったのだ。

 そのニュースは、私たちがその後に住んだ西武庫団地で知り合った男の子の結婚式に呼ばれたその日の夕刊に出ていた。私たちが結婚式に呼ばれなかったらそのニュースは知らないまま、そして、明治村を訪れることも稀だから、一生知らないままに終わったかも知れない。

 私たちは幸いにも新婚当時2ヶ月住んだ家をご近所の方と共に訪れた。

 芝川邸はぴかぴかに出来上がり、暗い電球の昔の古ぼけた家から昔の住まいの感覚を取り戻すのは難しかった。土埃で曇ったガラス窓から覗いたダンスホールは始めてみる光景であった。何よりも残念なのは、あのすばらしい眺望が無かったことである。すばらしい眺めはボランティアの方の解説にも無かった。出来れば2階からの眺望をさえぎっている木々を切ってほしい。そして広い眺望を与えることこそこの家の再現に忠実だと思った。甲東園の高台に登って目の前に開ける眺望を見れば、その眺望がこの建物にとって如何に重要であるかわかるはずである。明治村の関係の方は是非足を運んでほしいものである。

 芝川さんについて、臨床心理士の方に向けて、少し付け加えておこう。

 私たちが心理学をやっていると話をしたら、当時のご主人、芝川又四郎さんのお兄さんが、昔、昭和の初め出ていた雑誌『変態心理(異常心理)の研究』の出版を援助していたといわれた。この雑誌は今復刻され多くの臨床心理学関係の大学の図書館に入れられている。この雑誌は中村古峡さんが編集して出していたもので、当時研究されていた多重人格の症例が多く紹介されている。中村古峡さんはユングの『生命力の発展』(『変容の象徴』)の翻訳も手がけておられ、昭和の初めに出た世界大思想全集にガリレオと共に収録されている。

 中村古峡さんの報告された『二重人格の少年』は河合隼雄先生が『ユング心理学入門』で紹介されているので臨床心理士の方は大抵ご存知だろうと思う。

 

 芝川邸に入って芝川又四郎さんに会った当時は、ユングのことも中村古峡さんのことも全然知らなかった。私たちは黒丸先生の縁で不思議な縁のつながりに入っているような気がする。このような縁のつながりを支えるものそれが確かないのちなのではなかろうか。