内界と外界

 この連休は書きものに専念しようと思ったら、最初のテーマで行き詰ってしまって書くことが出来なくなった。スランプである。庭仕事も滞っているのでそれに取り掛かったら、それも何かうまく行かず気分が腐ってしまった。そして昨日は逃げだすように明治村をご近所の方々と訪問した。それはそれで楽しかったが、外界の目新しさに見とれて内界への目がふさがったように感じて、自分のいのちはこれまでかという絶望感が透明な壁のように迫ってきた。このままではいけないとたましいが思ったのか、夜中に目が覚めて眠れなくなってしまった。それで起きてきて、頭のなかに浮かぶものをとにかく書くことにした。

 明治村に行く延長として外国の旅がある。ヨーロッパも、北米も、そして中南米もモンゴルも、行けばきっとたましいを揺さぶられるくらい新鮮で迫力があるだろうと思う。

 でも、私はできれば内界の探検をして見たい。外国の景色は大画面のハイビジョンテレビで、ごく表面であろうが、見ることができる。しかし、内界は自分で見なければならない。小説家やクライエントの心の世界も私の心の目からしか見ることができない。

閉じこもりといわれる人がどんな生活をしているのか、孤独で愛に満たされない女性はどのように満足するのか。わが子をわずらわしく感じる母親はいっぱいいるのではないか。母性本能が目覚めない女性が子どもを産んだときどうすればよいのか。子どもは母親が育てるべきであると考えながら、今では塾通いが普通である。塾の利用は教育の専門家の利用である。それなら、子育ても専門家に任せてはどうか。

 このようないろいろな現代の問題を考えていると、考えは尽きることがない。外界には未知の世界はほとんどなくなった。海底やミクロの世界をテレビは見せてくれるが、それらは観察方法や測定方法が発達したお蔭である。見ればああそうだったかで心を通り過ぎてしまう。テレビは次から次へ映像を映し出し、外国旅行で見た景色もアルバムの写真になって納まってしまう。写真集はもう一度想像をたくましくすると思い出を再現できるが何も新しいものはない。古いものに安心を見出す人はそれでも良いかもしれないが、私は安心よりも、次の新しい、何かわくわくするものが見たい人間だと思う。

このわくわくを引き起こすものは私の内界にも沢山あるような気がしている。

 この内界への旅は、相当にエネルギーを注いで専念しないと出来ない。少し外側の楽しみを経験すると内界の劇場はすぐに幕が降りてしまう。美しい花や景色に見取れていると心の世界は見えなくなってしまう。内界に向うには周囲に何も無い方が良い。猫にかまうことさえうるさい。猫にかまけた内田百閒は猫のことしか書けなかったのではないか。猫にかまわず猫になってみたとき『我輩は猫である』が誕生する。

 私はカウンセラーでありながら、クライエントになってみることがなかったのかも知れないと反省する。私は内界でクライエントの気持ちを汲んだと考えてきた。しかし、クライエントの気持ちを汲むのとクライエントになってみるのとまったく違うのではないか。

 

 私はクライエントである、私は女であるとして、演じるとき何か大きな世界が現れ出てくるのではないか。内界の劇場に期待しよう。