河合の心理療法 その1

 昨日、山王教育研究所主催の河合隼雄先生追悼シンポジュウムが明治大学リバティーセンターで開催された。そのシンポジュウムでも出た話で、河合先生は何もしないことに全力を尽くすといわれたけれど、先生の面接を隣で聞くと先生は良くしゃべっていらっしゃったということである。あんなに良くしゃべっていながら、クライエントには何もしないということかという感想が出た。私も隣で河合先生の面接を聞いたことがあってそのときも先生は良くしゃべっていらっしゃった。

 河合先生はサービスしなければならない人には徹底的にサービスされたと思う。私のようなクライエントには徹底的にケチであった。話が面白くないと眠ったようになられた。そういうときは全くサービス抜きであった。分析家はケチであれというのはマイヤーさんの教えの踏襲であった。

 先生は箱庭を見て、少し質問し、感心してその場を離れられた。先生の仕事はそれで済んでいた。先生は箱庭を見て、何かをすごく深く、そしていろいろなことを感じていらっしゃったのだろうと思う。その内容を聞くことさえはばかられた感じで、誰もその内容について聞いてはいないだろうと思う。

 先生の感じていらっしゃるレベルはあまり言語化できないレベルのものだったのではないかと推測する。

 橘令子さんは新潟の花火の夜、花火の音が聞こえる中、先生が『思い出のマーにー』について語れたときのことを追悼文に書いている。先生はマーにーの世界に入って瞑想するように心に浮かんでくるものを語っていられたとあった。このことを考え合わせると、先生の集中力、心の中で箱庭の表現内容に語らしめる力があるのを感じるのである。

 私たちはそれだけの作業を個々の箱庭の前でしているだろうか。

 

 何もしないといいながら、箱庭に表現されたシナリオを読み、そこに表現されようとしているテーマを想像する力を感じるのである。その姿勢は明恵の夢の解釈にも如実に現れている。それは解釈以上のものである。先生は瞑想しながら面接を進めていられたのではないかと思う。その瞑想は単なる静かな瞑想ではなく、相手の心も含めた瞑想だったのではなかろうか。こう考えると来談者中心療法とは全く違うことがわかる。これに一番近い面接をしているのは大住誠さんである。参照『ユング心理学+仏教のカウンセリング』(学陽書房)