話を聞く 心の世界の観察の旅

 話を聞いてあげる、これが意外と難しく、カウンセラーが聞くのと、他の人が聞くのと随分違うのではないか、その違いをはっきりさせないといけないと思った。

 老人施設である入居者が部屋に閉じこもりがちである。その人は部屋の前をとおる人を掴まえては長々と話をする。1時間で済むこともあれば2時間かかることもある。2時間も話を聞かされては他の仕事ができなくて困る。

 ある人はいろいろな苦情を述べああしてほしいこうしてほしいと述べる。それを一々受け入れて対応していたら大変なので、聞くだけにしておく。また言ってきたら考えることにしようと思っていると、苦情を訴えた人は、折角言ったのに何もしてくれないと不満を持って、何も言わなくなってしまった。これでは不満がくすぶってしまう。

 この施設はかなり健康度の高い人が入居していて、全体の満足度はとても高いところである。そういうところでもごく少数だが不満がたまっている人はある。不満がたまって誰か話を聞いてくれそうな人を掴まえて思いのたけを吐露するか、反対に心の中に閉じ込めてぐっと我慢しているかということになる。小数でも強い不満を持った人の存在は介護側の心に重くのしかかる。

 

 私はボランティアとして不満を持っている入居者の話を聞く。私の奉仕の時間は2時間だから、40分ずつ3人の話を聞く。普段1時間以上も話をする人も、制限時間が来て“ハイ、今日はこれまで”と言うとすっと終わるので不思議である。みんながしゃべるのを避けている人も、最後の時間を当てて話を聞くと1時間以上も話をされる。次からは40分で切る。できるだけサービスはしない。カウンセラーはケチであれと最初に河合先生に教えられた。それを先生自身が身をもって示された。

 その代わり話を聞く必要があるときには時間内で一所懸命に聞く。

 後で記録するのが私は苦手なので、話を聞きながらメモする。私の場合それがしっかり聞くことにつながる。

 私は施設職員でないから改善要求は出てこない。私に話されるのは不満な気持ちや昔の思い出が主である。私はその人が思っていること考えていることを聞くようにしている。

 心の世界で何を見、何を考え、何を感じているのかを見ている。どのように生きているかを見ているのだ。私は聞くというより心の世界の観察者でもある。そんなふうにかんじているのだ、こんなふうにかんがえるのだ、と感心して聞いているのではないか。

 私は話を聞く人であると同時に観察者であるようだ。

 観察者とはつめたい人間である。

 私は話を聞く自分も観察している。この話は眠たいとか退屈とか、何ともやりきれない、悲しく可哀想とか感じている自分も見ている。

 メモしているときの、書く字の形態水準も大切な判断基準である。きれいにメモできる人は心がしっかりしているのではないか。私の姿勢を立派にする人である。メモする字が汚く崩れて、我ながら読みにくい字になることがある。そうすると、この人は私の心を乱す人であると考える。自分が崩れないようにしっかりしなければと身構える。

 このように考えながら話を聞く。そして自分をコントロールしながら、相手との関係をまとめて行く。それが良い関係につながる。

 私たちの聞く仕事は、相手の求めていることに応えてあげることではない。要求が消えるまで待っていることでもない。

 

 私がしていることは相手ばかりでなく、自分の心の中を観察し、どのように生きていくかを観察し、心の状態を整えていく仕事ではないか。毎日の心の生活は流れていく川のようである。あるいは、心の旅である。私はその道行きに沿って生きながら心の観察の旅をしているのではないか。だから、今日はこれまでとあっさり切ることができるのだろうと思う。問題は何も解決しないが、心の生活をしっかりと生きることにつながる。病気や悩みなど心の重荷をしっかり背負って生きることを手伝っているのではないかと思う。