現実型と夢想型

 現実型と夢想型を考えたとき、ユングの外向型と内向型を連想する。しかし、内向型と思う私がファンタジーに親和性が乏しい。私は釣りには関心を持つが釣りには行かない。実際釣りに行くよりも、西園寺公一さんの釣り本が面白い。面白いと思っても釣り師の根性を思うとついて行けない。釣りの本で満足している。これは内向型である。だから外向内向のほかに、現実と夢想を考えなければならない。

 夢想型というと、ニーチェのアポロタイプとディオニソスタイプが思い出される。これは喜びを夢想の中に求めるか、陶酔の中に求めるかの違いで、これもまた面白い分け方である。ディオニソス型を現実での陶酔と考えると現実型に近くなる。古代ギリシャにおいてディオニソスは女性の神様であった。おいしいものを食べておしゃべりに興じることを最高の幸せと感じる女性を見ると、古代ギリシャ以来変わらぬ姿が現代にも生きてあることがわかる。女性のおしゃべりの内容はほとんど現実のことで、その話に陶酔しているのだから陶酔型で、現実型なのである。

 

 前置きはさておき、私の現実と夢想に戻ろう。

 私は大学を卒業するまで狭い田畑を耕す農家に育った。農業というと今の機会を使った大規模農業を連想されるだろう。当時、化学肥料はあったが、機械もハウス栽培もなかった。春に種を蒔き、暑い夏に草取りをし、稲を鎌で刈り、足ふみ機械で脱穀した。フォークリフトはないから、60キロの俵を担いだ。仕事は自然という現実との闘いであった。

 父親はラジオのドラマを“あんな嘘ごとを”という人であったこともあって、私には夢想の能力が育たなかった。浪花節がはやった時代だった。母親はラジオの浪花節で清水の次郎長を聞いているので、学校の図書館で清水の次郎長の本を借りて来て読んでいたら、そんなもの読んでいると不良になると一喝され、読めなくなった。流行歌を子どもが歌うのは不良と見られた時代である。家は貧しかったから、少年倶楽部も読んでいないし、のらくろも大人になって知ったくらいである。子どもだった頃と問われるとお見せするものがなく、恥ずかしい。

 私はこんな環境で育ったので、意識の態度は現実的合理的で、夢想や非合理的なところできわめて弱い。河合先生とはその点で大きく異なっている。自我も未熟で自己中心的だから、いつも無意識の非合理的な考えや夢想に引きずられて間違いや忘れ物がしょっちゅう起こる始末である。意識の態度が現実的合理的なのに、そうである。自分でもどうしようもないのでこのまま生きていくしかない。

 このような私は心の中の、ささやく声、それを真実の、良心の声と思ってきた。神の声には間違いがないと思ってきた。心の中でささやく声というと現実に感じ取ることができる。それは非現実ではなく、私にとっては現実である。ところが、たましいとかセルフという概念は非現実で実際に触れることができないものである。それには夢想の方から接近した方がわかりやすいようだ。夢想の中にあるにもかかわらず、外的現実よりもっと意味があり、心の活動への影響力があるところがなんとも不思議である。

 外的現実世界に存在しない数の世界と同じものである。数は活字になっているので外的現実と思いがちであるが、数学は内的現実としてあり、外的現実にも適合し、美しいまでの合理性と真実性を持っている。数学は夢想の世界に開かれたもう一つの現実であり、心の世界の一つの姿である。

 非合理的な夢想の世界に幼い頃から開かれ、数学も学んだ河合先生は、どうやら、真実でないものも認めている。数に実数と虚数があるように、人にも虚数の世界、物語の世界がある。虚の世界、物語のなかに心が生きて表れることを河合先生は示されたのであった。この物語の世界にたましいが現れ、私たちの生活を導いて行くのだが、それにかかわっていると安泰というわけではなく、時には、夢想の世界から表れ出たたましいの働きで、大変な苦難の旅になることを覚悟しなければならない。

 たましいが苦難の旅を導く。極端にいえば、たましいに騙され、苦難の旅に引きずり込まれることがある。たましいも人に対して嘘をつくことがあると、河合先生は疑いの目で見ていたのではないか。セルフの働きのなかに聖なるもの、真実のものを私は考えていたが、真実があるとすれば、その影として当然嘘があるべきである。

 ユングもアニマが言うことは真実であるとは限らないので、良く聞いて考えなければならないと言っている。セルフの声を直接聞くことは難しく、無意識の代表であるアニマの声を通じてセルフの声を聞くことになると考えると、ユングの言うことは妥当と思う。河合先生のたましいは、セルフとアニマ・アニムスを含んだ心の重要な部分、心のいのちを指していると思う。このたましいは心の最も重要な部分でありながら、その影に先生が注目しているところがすごいと思う。キリスト教のヤーウェにも、アッラーにも、仏陀にも影がある。『猫だましい』の表紙カバーの猫の写真に長い影がついている。河合先生はその影に注目している。ユングのセルフの影、そこまで考えておられたのだ。

 

 このようなことを考えてみると、そこには私が容易に入っていけない数学的な世界観や思考法がある。それは夢想の世界に鋭い理性で切り込んで行く生き方である。