どうして私はこんなことばかり

 「どうして私はこんな人ばかり引き受けることになるのだろう」という嘆きをあるカウンセラーから聞いた。

 私はかつて引き受けるクライエントがほとんど男性だったことがある。それがある時期を境にして女性がほとんどになった。それを私の先生に言うと、自分もかつてそうだった今は男性が多くなっているけれどということだった。

 アメリカでオフィスを持っているカウンセラーは、大体適当にクライエントの方が来られる。一人終わると次の申込があるというふうなので心配しないということだった。私も退職して心のゆとりができたら中断していた方がお見えになった。まるで私の時間が空いたのを遠くから見つけられたようであった。

 カウンセラーによってはオフィスを開いたのにクライエントが来てくれないとか、来られても問題がはっきりしなくて上手く行かないということがある。あるいはクライエントの方が見えても、難しい事例ばかりということがある。特に、スクール・カウンセラーをしていると、病院でも大学の相談室でも、私設相談室にも決して見えないような方が見えることがある。学校というところはあらゆる社会層を背景にしているので、超エリートからどん底の貧乏や悲しい病や、常識を超える家庭事情に苦しむ人もある。超エリートだからといって問題がないわけではない。むしろ、エリートになるために無理したり、親代々エリートだから、子どももエリートにしなければと苦労している人も少なくない。

 中学校のスクール・カウンセラーをしていると、生徒よりも、生徒の問題を通して親、そして家庭の問題が相談に持ち込まれることがある。カウンセラーによっては、どうして私はこんな人にめぐり合うのだろうと苦しまれる。単なる不登校の背景に大きな家庭問題が鎮座していることがある。思春期という時期は子どもの問題と同時に家庭問題、個人の人生観の問題が浮上するときである。そういうことにあるカウンセラーはまったくかかわりないが、ある人のところにはそういう人ばかりがなぜかやってくる。まるでカウンセラーが引き寄せているみたいだ。

 それらの人びとは家庭の中の心の問題を人に相談して良いのかといぶかり、家庭問題で見ず知らずの人に頼ってはいけないと考えているから、話せる人が学校に見つかったからといって、娘とは全く関係のない自分のことでスクール・カウンセラーのところに頼っていいのだろうかと考えるだろう。そういうことを一緒に考えるのがカウンセラーの仕事であるという認識はまだ社会一般のものになっていないから、遠慮があるだろう。また、子どもの思春期を迎えた家庭の複雑な問題は暗く、重く、なかなか解決の見通しが立たない。家庭の問題に苦しむ人はおそらく結婚以来10数年そのことに苦しんできている。解決の見通しが全く立たない問題を抱えてクライエントが通い続けるには、励まし、勇気づけ、そして長い目で見ていく態度が必要だ。

 そういうところに感受性が開かれたカウンセラーのところに深い問題を持った人がやってくるのではないか。あるいは、子どもの不登校のことだけ話していればいいものを、家庭の深い問題まで開かせてしまうのではないか。これはカウンセラーの資質の問題で、クライエントは相手を見て、心を開いてくると考えるとわかる。

 こういう現象もユングのいう同時性、synchronicityである。カウンセラーが心の深層にかかわりながら動いているとき、自分はなぜこんなにも苦しい人生を生きなければならないかと省みている人と響き合うのではなかろうか。因果的に考えればまさに自分がそういう人を引き寄せているのであり、また、それを客観的に考える力をもっているからではないかと思う。

 

 人生を一段上の高みから広く見るこの客観性は真に宗教的な視点であり、現象の背景に何が動いているのか、それはどうなっていくのかを見極めなければすまない超越的な視点であると思う。人の苦しみに共鳴する心と、それの苦しみの現象を突き放してみる冷静な目を持つ人にだけ可能なことではなかろうか。