河合隼雄先生が逝去されて、残された私たちは何を考えたらいいのだろうか。
先生がお元気な間はすべてを先生にお任せしていた感じがある。先生が何とかしてくださると。先生は一人臨床心理士のために考えてくださっていたと思う。常々臨床心理士としての技量を高めなさい、それが一番大切なことですと言っておられた。
ところが今どこのセミナーも大入り満員というわけではない。むしろ有料の、質の高いセミナーも受講者が少なくなっている。多くの臨床心理士が個人的にスーパービジョンを受けているかどうか私にはわからない。とにかく技量を高めてくださいという言葉が残っているのに、それがどこでどのように研鑽されているのか不明である。
省みると、私たちは一人ひとりが河合隼雄先生に尊敬の気持ちを持ち、先生に守られて、心理臨床に携わっていたのではなかろうか。その姿は私には、丁度、遊園地のブランコのイメージになる。一人ひとりが先生とつながり、みんなでぐるぐる回っている姿である。中心に河合隼雄先生が居られてぶら下がっているのである。最近の若い人は、遠くに河合隼雄先生が居られることはわかっていても、先生にぶら下がって回っていることも意識していなかったのではなかろうか。何となく臨床心理士になって心理臨床に携わり、見よう見まねでスクール・カウンセラーをこなしている。学校臨床についても何をどう学んでいいかもわからない人があるのではなかろうか。私たちもブランコにぶら下がっているだけなので、誰がどこで何をしているかもわからないことが多い。遊園地のブランコは一人ひとりの境地にあって、互いに知らないし、話もできない。これこそ河合隼雄先生の影ではないかと思った。
先生は自分の内面に向かっていつも対話されていた。だからこそ、人との対話がうまかった。先生ご自身は多くの方と対話をなされ、その成果は私たちを温かく包んでいる。しかし、臨床心理士自身がお互いにどれくらい率直に対話をしているかというと疑問である。学会で声高に叫ぶ人はいるが、その人との対話はないに等しい。人の意見に対して私はこう思うという意見の表明の機会がとても少ない。質問をして座長が答え、教え諭すことで終わっている。心理臨床学会でも箱庭療法学会でも同じである。例えば、一つの箱庭表現の解釈についてもいろいろな意見があるはずだが、それを互いに出し合って討論する機会がない。
互いに討論すると、全く対立することも起こりうる。激論が交わされることもあろう。しかし、このような話し合いを通じて、お互いに分かり合っていくことが大切である。フランス人の先生に、“パリは喧嘩が面白かったとある人が言っていました”と言ったら、先生は“あれは喧嘩ではなく議論しているのです”と言われた。私に真顔で議論し、時には取っ組み合いも辞さないという討論ができるだろうか。しかし、今や、人と対話のできないクライエントが大勢いる。対話の能力こそが磨かれねばならないのではなかろうか。それは臨床心理士のアイデンティティとして大変重要ではないかと思う。なぜなら、クライエントは人との対話が十分にできないで苦しんでいるのだから。不登校や閉じこもりの人たちの当面している問題はまさにそれなのだから。
臨床心理士は互いに挨拶し、互いのやり方を尊重しながら、各々自分の個性的なやり方を互いに磨いていくべきではないかと思った。そいう意味から私のこのエッセイについても意見を出してほしいし、私も時間の許す限り答えていきたいと思っている。