来談者中心療法は共感と受容ということでまとめられている。受容はクライエントの話をよく聞く入れるということ、そして共感はクライエントの身になって気持ちをわかってあげるということといっていいだろう。
受容、クライエントの話をよく聞いて受け入れてあげること、それはクライエントの話を何でも良く聞いてあげるという、受け取りの幅ということで理解しやすい。ここではあまり理解の相違は起こらない。しかし、共感についてはどこまで共感したらよいのですか、どうしたら共感したことになるのですかという疑問は最初からあって、この疑問にどう答えるか問題であったと思う。今もこのことにこだわっている人が少なくないと思う。
共感については共感の幅ということはあまり考えないのではないか。幅よりも深さを考えるだろう。共感の深さというと、どこまで共感したらよいのかと疑問がわく。そこで底知れぬ感情の世界に引き込まれて、身動きができなくなるのである。
ロジャーズの『カウンセリングと心理療法』という1942年に出版された最初の非指示的カウンセリングの本の、最後のほうにカウンセラーの資質についての論及がある。ここはあまり読まれていないのではないかと思うので、ここに改めて紹介しておく。
ロジャーズはカウンセラーの資質として、心に対する敏感さを当然あるべきものと考えている。その上で3つの点を挙げている。
第一は客観性、第二は個人の尊重、第三は心理学的知識である。
ここで注目すべきところは客観性を重視しているところである。この客観性を共感と組み合わせると共感の意味も少し違って側面から理解できる。
私たちはクライエントが悲しみの中にいると、その悲しみをどれだけ汲み取るかが共感だと考えやすい。悲しみを深めるとその深みはどこまでもあってきりがない。感情には深みがあるのだから、どこまで共感したらよいかと考えると答えが出ないのは当たり前ではないか。
カウンセラーがクライエントの気持ちに対して客観性を持って対峙すると、クライエントの感情の世界には様々な気持ちがあって一つではないことがわかる。特に攻撃性と愛情は裏腹な関係にあるので、愛情が表に出ていると嫌悪感は見えにくいし、怒りに満ちていると愛情の側面は見えない。これはユングがフロイトのエロス理論とアドラーの権力への意志の理論を対比して論じたとき明らかにされたところである。対立する二つの立場では相互に理解が難しい。対立する気持ちは個人の中でもある。母親や父親を愛する気持ちと憎む気持ちは相補的で、誰でもそうであるに違いない。
私たちの感情の領域は表に出ている感情のほかにいろいろな感情が動いている。その感情を知るには感情に惑わされない客観性が必要である。私たちは感情の世界を知るために心に対する敏感さと同時に客観性も必要なのである。客観性をもって見ていると、様々な気持ちがあることがわかるだろう。つまり、共感にも幅が出てくるのである。人の気持ちという心の池には、池に様々な浮き草があり、その下にまた様々な藻や昆虫や魚が生きているように、様々な気持ちがあることがわかる。客観性をもってより広く見ていると、心の深みに入ってより深いところにある気持ちにも気づくことができるのではなかろうか。河合先生は臨床の実際を説明して、クライエントの話を聞きながら様々なこと考えると言われた。河合先生の共感はクライエントが話しているそのことだけでなく、それに関連することをできるだけ多く考えるということであろう。共感の幅の広さという重大な視点を含んでいたのではないかと今にして思う。もっといろいろあるということの意味を、もっとそれ以上の可能性を考えると解することもできるし、もっと他の気持ちもあるはずで、底の底にはもっと深い気持ちもあるはずであるという考え方をしたとき、共感の深さということが出てきたのである。
共感を深めていると、感情のうち彩のある激しい感情の世界はごく表面的なもので、もっと深いところにある感情は、意識の光が十分に届かないせいか、感情の彩が薄くなり、ついにはほとんど彩りのない気持ちになってしまう。感情というより思いに近いだろう。ほのかな、はかない気持ち、あるかないかわからないような心の世界にさまようことになるだろう。私はここを小さな声の世界と呼んでいる。
この小さな声にしたがっていると間違いない人生を歩むことができるとビートたけしさんは言う。しかし、それでは人生は面白くないと。
たしかに、小さな声の示すところは間違いが少ないと思う。カウンセリングではこのレベルの心に注目しているとうまく行くように思う。間違いが少ない。そして、時々、思いがけない興味のあることが起こる。意外な展開になる。一つの感情の観点から見ると世界がひっくり返るようなことが起こる。奥さんにやさしく思いやり深く仕える夫、子どものためにまじめになって模範的な立派な父親になろうとしてきた自分とは反対に、わがままな亭主関白もいい、生活を楽しみゲームに没頭する父親もいいではないかと考えたとき、元気になるのだ。
このような展開は気持ちを幅広く見ていないと出てこないのではなかろうか。そういうことで共感するということに代えて、気持ちを幅広く見て、より深い気持ちにも可能性を開くことがいいと思う。そうすると共感した感情とは違った、全く逆の感情も出てくることになるのである。ここがカウンセリングの重要なところではないかと思う。表に表れた気持ちだけでなく、あるかないかわからないような、いまだ表面に出ていない気持ちにも目を向けることが大切である。
その際、クライエントの深層の気持ちはほのかでわからない。そこでカウンセラーが自分の内面を見て、様々な気持ちを見るのである。クライエントの内面に向かず、カウンセラーが自分の内面に注目しているところがロジャーズの態度と河合先生の違うところである。ロジャーズの共感という外向的な態度を捨て、むしろ、内向的になり、クライエントを前に瞑想しているのである。河合先生とロジャーズはこの点で全く違うのではなかろうか。
最近、大住誠先生はこのようなことを自分の事例で示そうとしておられる。ご期待ください。