男性の理想像からモデルへ

 アメリカの男性の理想像はゴッドファーザーではなかったか。フランスでもジャン・ギャバンやアラン・ドロンが演じる悪人がいた。日本の男性の理想像は、かつてやくざであった。清水の次郎長、国定忠治らが浪花節のなかで生きていた。義理と人情が大切であった。映画の時代になるとやくざ映画が流行った。しかし、何故かそれも消えて行った。

 今でも人気のある寅さんはやくざではあるが、コメディーのキャラクターで、恋する純情な男性になって、悪の要素は薄れている。

 ウルトラマンのような正義の味方は子供時代のキャラクターである。大人の男性の理想像であるためには正義や善だけではなく、悪の要素がなければならない。

 家族を持たない、まともな職業に就いていないという点では、寅さんも悪の面を持っているのだが、恋心をまともに打ち明けられない男性は現代的ではない。

 現代は男性が理想像を失った時代であると言っていいと考えた。しかし、男性が精神的に成長していくためにモデルとなるキャラクターを探しておくことは、これからの男の子のカウンセリングで必要になってくるのではないかと考え、少し考えをめぐらせて見た。
 
 その結果、見えてきたキャラクターは、今時、テレビで活躍する男性たちである。

 人気のある男性をあげてみると、おしゃべりな男性が目につく。たもりさんやさんまさんである。たけしさんははっきりとものを言う方であるが、基本的には寡黙であり、映画作品に見られるように今の日本人には受け入れられないような攻撃性を感じさせる。たけしさんがフランスで受けるのはうなずけるが、日本人には少しきつすぎるのではないか。たけしさんと比較すると、攻撃性を前面に感じさせないおしゃべりのキャラクターがもてているのではなかろうか。

 タモリさんやさんまさんを、男性の理想像であると言うことには抵抗がある。理想像という言葉は像、特にでんと構えた銅像を連想させる。銅像は動かない。一方、快活なおしゃべりの要素をもったキャラクターは動き、感情をもって生きている。だから、理想像というよりもモデルと言った方がいい。
 おしゃべりな性格は現代を生きやすくする機能である。巧みな会話で活路を見出し、生き抜いていく巧妙さである。義理と人情で人間関係の規範ではなく、気軽な話術の巧みさでみんなをひきつけ、その場そのときに適った規範や考え方をわからせ、引っ張っていく力、新しいリーダーシップを持った男性である。複雑な人間関係の中に新しい生き方を見つけていくモデルである。男性モデルは女性に生活の保障する役割から、生活に楽しさを与える役割に変わってきたのだ。
 
 やくざが理想であった時代の男性は寡黙であった。沈黙は金であり、おしゃべりは悪であった。昔は食事中のおしゃべりは無作法とされた家庭もあった。黙って食べなさいと言われて育った人も多いのではないか。それが今では黙って食べていると、息が詰まるような感じになって、おしゃべりしながら楽しく食べることが普通になった。
おしゃべりは元々女性のものであった。それが男性の世界に入ってきたのだ。男女同権はここまで進んだと感心する世代の私である。