外国語は習得できなくても

長谷川泰子

 

 知り合いのX先生に会いに行きました。今は研究会などもなかなか開けず、X先生と話したくても会う機会がなかなか持てないままで、何か話したいことがあるときはいつもメールでのやりとりになっていました。最近、どうしても直接会って話をしたいことがあり、久々にお会いして3時間近く話をしました。

 X先生を目の前にしているとあれこれ思いつくこともあって話が尽きることはなく、3時間もあっという間でした。やっぱり直接会って話をすることは大事だ、会うからこそできる話がある、そんなことを考えながら帰ってきました。

 

 ところが、最新号のTHE BIG ISSUE(2021.8.1vol.412)の特集記事「見えない世界と“ソーシャル・ビュー”を読んで、そんな私の見方も一面的なものかもしれないと考えました。

 特集記事の中で障害者の身体感覚について研究している伊藤亜紗さんという方の研究についての紹介記事(「異なる身体に変身することで“当たり前”を疑う コロナ禍の状況は“障害”そのもの。できる・できないの境界も変化」)があり、特に見えない人は世界をどうとらえているかについての話は面白く読みました(ちなみにこの記事で紹介がありましたが、主に視覚障害者の人が使う音声読み上げソフトの中には“障がい”を“さわるがい”と読んでしまうものがあるそうで、様々な考えから伊藤亜紗さんは「障害」と表記するようにしています、とのことです)。

 今は大人数が集まって話をすることが難しく、臨床心理士の研修などもオンラインのものが目立ちます。この記事の中でZoom会議の体験について触れられていましたが、見えない人の中にはむしろZoomの方がコミュニケーションをとりやすいという人がいるそうです。Zoomだと視覚的な情報も限られ相手の雰囲気をつかみにくいところもあってか、“これ”とか“あれ”とかの指示語を使わずに具体的に説明されることが多く、分かりやすいのだそうです。

 私がX先生に直接会って話した方が良かったと思ったのはもちろん本当のことで、率直な実感なのですが、それがいつも一律にみんな同じようにあてはまるものではないのだ改めて気づかされました。よく考えてみると、「今は旅行に行こうと言われないから楽でいい」「積極的に外に遊びに行かなくても、家にずっといても、“休みの日に何してるの!?”なんて言われないからいい」というような人もいたなということが思い出されたりもしました。

 

 学生時代に授業を受けていた先生がよく、外国語を勉強することは臨床に役立つと言っていたのを覚えています。クライエントの話、他者を理解しようとすることは、外国の言葉・文化を理解することに等しいというわけです。

 子どもの頃、友達の家に遊びに行くと、自分の家との違いに驚くことはなかったでしょうか。他の家でご飯を食べさせてもらったり泊めてもらったりすると、尚更、自分の家との違いを強く意識することになります。それまでは自分の家のやり方が唯一絶対で、他のやり方があるなんて思いもよりません。自分が世界の中心、というか自分以外のものがない、自分が理解できないものがない世界にいたと言えるでしょう。

 自分とは異なる様々な世界を知ること、いろいろなやり方・考え方を知ることはカルチャーショック、異文化体験の一つです。全く知らない外国語を一から学ぶように大変な作業かもしれません。相手のことがうまく理解できないこともあります。コミュニケーションが成り立たず孤独を感じたり、自分が間違っているのではと思えて不安になったりするかもあるかもしれません。しかし、自分と違う世界を触れることで、自分自身もより客観的に、より深く見られるところが出てくるのではないでしょうか。

 

 自分とは異なるものがいないところで、自分だけが正しい、理解できないものは間違っていると思って生きていくことは、自分の可能性を狭めることにもなると思います。外国語は習得できなくても、新しい世界を少しでも広げていくことは、自分自身の心の中の世界も広げていくことにもなるのではないでしょうか。

 

 

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